琥珀のリワード

都心から離れた場所にある、古い雑居ビルの3階。そこには私設の小さな図書室があった。

主人公の理人(りひと)は、平日の午後、仕事の合間にここでノートPCを広げるのが日課だ。フリーランスのWEBディレクターとして数字と向き合う彼にとって、紙の匂いに包まれるこの場所は、唯一「クリック」の存在しない聖域だった。

窓際の特等席。そこにはいつも、一人の女性が座っていた。

彼女はいつも、古い植物図鑑を眺めている。理人が座る席からは、彼女の横顔と、繊細な指先がページをめくる音だけが聞こえた。会話を交わしたことは一度もない。ただ、彼女が時折、窓の外の街路樹を見上げて小さく微笑む瞬間を、理人は密かに「本日のリワード」と名付けていた。

ある雨の火曜日。理人がいつものように席に着くと、彼女の姿がなかった。
テーブルの上には、一冊の古い文庫本がポツンと置かれている。

(忘れ物だろうか……)

理人はつい、その本を手に取った。タイトルは『琥珀の記憶』。
ページをめくると、栞代わりに一枚のレシートが挟まっていた。裏返すと、そこには流れるような文字でこう記されていた。

「画面の中の数字も大事だけれど、たまには空を見上げてくださいね。桜川の空は、夕暮れ時が一番綺麗ですから」

心臓が跳ねた。彼女は、理人がいつも必死にキーボードを叩いている姿を見ていたのだ。

理人が顔を上げると、入り口のドアが開いた。濡れた傘を畳みながら、彼女が申し訳なさそうにこちらへ歩いてくる。目が合った瞬間、彼女は驚いたように足を止め、それからレシートのメッセージを思い出したのか、頬をうっすらと赤く染めた。

「あ……それ、見ちゃいました?」

彼女の声は、想像していたよりもずっと柔らかく、雨の音に溶けてしまいそうだった。

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